32歳で家老に任じられた際、会津藩は天明の大飢饉であった。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済について研究し、一年後復権の際に藩政の大改革「天明の改革」を提言し大きな成果をあげた。また、藩校「日新館」を創設、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。会津藩樺太出兵の最中、歳でこの世を去る。「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言し、墓はそれらの見渡せる小田山の山頂にある。


●平成20年5月23日写楽

小田山城跡
●丹羽能教 (1843)
会津藩の軍事奉行、若年寄から家老に進み
5代藩主・松平容頌から四代の藩主に渡って
仕えた人物に御座います。
この間に、鎖国中の日本に交易や入港を求める
外国船が盛んになって来るようになります。
このため文化五年の1808年会津藩は北方警備を
命ぜられ丹羽能教は軍事奉行とし日本より
遠く離れたカラフトに出陣いたしました・・・
同七年には江戸湾警備を命ぜられ三浦半島に
砲台を築き海防に力を尽くしました。
また、領内の荒地を開墾し、藩祖保科正之公の
祭田に加える等の功績・経済ににも優れた力を尽く
した会津藩士・丹羽能教の墓所もこの地に御座います。
