32歳で家老に任じられた際、会津藩は天明の大飢饉であった。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済について研究し、一年後復権の際に藩政の大改革「天明の改革」を提言し大きな成果をあげた。また、藩校「日新館」を創設、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。会津藩樺太出兵の最中、歳でこの世を去る。「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言し、墓はそれらの見渡せる小田山の山頂にある。

◎「小田山鹿・小田山城跡
場所は、下記・旧會津領主・葦名家廟所
「会津若松市門田町大字黒岩字花見ケ丘762
」より、山手方向徒歩約1分程のとこのに小田山城入り口が御座います。頂上へは、車にても時期により行けます・・・徒歩で、約40分程のところ近くに住む住民の散歩道と成っており、写楽を見て頂きましても御分かりに成れますが、この地も心落ち着く所です・・・
・・・・・・・・史跡・葦名家花見ケ森廟

2枚目の写楽・葦名家廟所から、スライドが開始されます・・・終了致しますと1枚目写楽から、小田山城城跡地に入ります・・・この地の殆んどが歩いた順序に、写楽に納めて御座いますので、分かり易いかと思います・・・又尚、西軍が攻め寄せて参りましたときに、この小田山からお城に大砲を放った場所でも御座います。・・スライドに載せて御座いますのでご覧いただけます。
 鶴ヶ城からも近いところでお車で約10分弱程の所に御います・・・。

   パソコンの機種によって、またはCPU1.7以下で見れない方の訪問者にも、写真にて
       分かっていただけますよう、できるだけ解り易く説明も載せて御座います・・・。

◎「旧會津領主・葦名家廟所」
場所は、「会津若松市門田町大字黒岩字花見ケ丘762」に御座います。
会津最初の領主は・・・初代「佐原義連さはらよしつら」後に、「葦名氏」と変わりました。今の神奈川県横須賀市佐原に居住していたことから、佐原氏を称していたと言われます。又、神奈川県横須賀市佐原から会津の最初の領主となった事情につきましては、北條時房の元服の際、鳥帽子親を命じられ勤め他、治承・寿永の乱・奥州合戦においても従事軍し、一層「頼朝」の信頼も特に高まり・・・奥州合戦の功により、奥州国会津を与えられ、鎌倉時代から会津にわかれた庶民は「葦名氏」を称して有力な戦国大名とになり、天正17(1589)20代目「義広」が「伊達政宗」と、磐梯山ろく摩上原での戦いで敗れ、会津を去るまでの間、400年の歴史を持っています・・・。この葦名家廟所は、16代目・盛氏の墓所が真ん中にありその左方向に、17代目・盛興、右方向に18代目・盛隆の墓所と並んで御座います。
                       クリックすると磐梯山ろく摩上原での戦い古戦場別ページで見れます。 
16代目・盛氏は、徳望があったばかりでなく武略も優れていたと言われ、長沼・二本松、須賀川・郡山・など従わせ、越後の上杉氏・甲賀の武田氏・相模の北條氏、甲賀の足利氏と交わり、威を四方に張ったので「葦名家」中興の祖伝われております。
17代目・葦名盛興公之墓、天正3(1575)65日没・・・。
16代目・葦名盛氏公之墓所、天正8(1580)617日没・・・。
18台目・葦名盛隆公之墓所、天正12(1584)106日没・・・。
建久3(1192)「頼朝」上洛に従い佐衛門尉に命ぜられます。後に、宝治合戦のときには、佐原盛時は北條方に付きさの勢力は大幅に縮小したといありますが、三浦氏の所領を継ぎます。鹿倉幕府の最後の時には足利尊氏に従い、室町時代には一時期でしたが、相模国守護となっております・・・その後、北條早雲と戦い永正13(1516)この戦いで滅亡してしまいます。

向羽黒山城跡

●平成20年5月23日写楽

葦名家紋

伊佐須見祭り
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相川観音
娘子隊長・中野竹子

小田山城跡

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new173.
亀ヶ城跡
高田「あ
坂下町亀ヶ森古墳
天鏡閣

西会津町・鳥追い観音
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田中二郎兵衛玄宰1748年〜1808年会津藩の名家老田中正宰の四世の孫に生まれ幼名・小三郎と呼ばれておりました・・・若くして田中家を相続三十四歳で家老と成っております・・・後に大家老に任じられて御座います。
※文化五年・(1808)「城と日新館の見えるところに埋めよ」と言い遺して死去しました。その遺言を守って、この小田山山頂に墓が作られて御座います・・・。

●丹羽能教 (1843)
会津藩の軍事奉行、若年寄から家老に進み
5代藩主・松平容頌から四代の藩主に渡って
仕えた人物に御座います。

この間に、鎖国中の日本に交易や入港を求める
外国船が盛んになって来るようになり
ます。
このため文化五年の1808年会津藩は北方警備を
命ぜられ丹羽能教は軍事奉行とし
日本より
遠く離れたカラフトに出陣いたしました・・・
同七年には江戸湾警備を命ぜられ
三浦半島に
砲台を築き海防に力を尽くしました。

また、領内の荒地を開墾し、藩祖保科正之公の
祭田に加える等の功績・経済ににも
優れた力を尽く
した会津藩士・丹羽能教の墓所もこの地に御座います。

会津坂下町 初市大俵引き
大内宿
裏磐梯ゴン
旧長谷部家住宅・八十里超叶津口番所跡
青津観音
番外柳津観音

中ノ明観音
南会津田島町・祇園際
会津藩主「保科正之公墓所」
平沢観音
関山観音
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